The Jar of Pickled Plums
梅干しの瓶
六月の終わり、実家から小さな段ボール箱が届いた。中には、ガラスの瓶がひとつと、母の手書きのメモが入っていた。「今年の梅干し。塩を減らしたので、早めに食べること」と書いてある。
瓶のふたを開けると、酸っぱいにおいが台所いっぱいに広がった。ひとつ取り出して、口に入れてみる。母の梅干しは、子どものころはしょっぱいばかりで、あまり好きではなかった。ところが、今年のものはずいぶん違う。塩の角が取れて、梅の香りが先に立つ。
食べているうちに、自分でも漬けてみたくなった。ちなみに、これまで料理といえば、卵を焼くくらいしかしたことがない。それでも、スーパーの野菜売り場に青梅が並んでいるのを見ると、できない話ではない気がした。一応、インターネットで作り方を調べ、梅を一キロと塩を買って帰った。
作業は思ったより簡単だった。梅を洗い、ヘタを取り、水気をふく。瓶に梅と塩を交互に入れて、重しをのせる。それだけだ。簡単な作業であるだけに、失敗する理由などどこにもないと、わたしは完全に油断していた。
ところが、一週間後に瓶をのぞいて、わたしは言葉を失った。梅の上に白いものが浮いている。カビだった。慌てて母に電話をかけると、母が笑いもせず、落ち着いた声で言った。
「水気が残っていたんでしょう。梅は、洗ったあとにしっかり乾かさないとだめよ。それから、瓶は焼酎で拭いた?」
「拭いてない。」
「それなら、カビが出てもおかしくないわね。」
反面、母の声には、責めるような調子がなかった。むしろ、少しうれしそうに聞こえた。
「梅仕事はね、どんなに気をつけても、失敗し得るものなのよ。わたしも最初の年は、全部だめにしたんだから。」
意外だったのは、母にもそんな時期があったということで、わたしはしばらく返事ができなかった。わたしが知っているのは、いつも台所で迷いなく手を動かしている母の姿だけだった。失敗している母の姿など、想像しようとしても少しも浮かばなかった。
「どうして、やめなかったの。」
「だって、お父さんが言ったのよ。しょっぱくてもいいから、お前の梅干しがいいって。」
そう言うと、母がしばらく黙った。父が亡くなって、もう三年になる。毎年、母が父の写真の前に梅干しを供えていると、親戚から聞いたことがあった。文句ばかり言っていた父が、いちばん楽しみにしていたのがあの瓶だったということを、わたしはその電話で初めて知ったのである。
電話を切ったあと、わたしは瓶を洗い直し、最初から梅を漬け直すことにした。今度は、梅を一個ずつ布でふき、半日ほど風通しのいい場所で乾かした。瓶は焼酎で念入りに拭いた。手間のかかる作業だが、不思議と面倒だとは思わなかった。
一方で、不安もあった。果たして、今度はうまくいくだろうか。毎朝、出かける前に瓶をのぞくのが日課になった。一日目、二日目、何も起こらない。三日目に、梅から水が上がってきた。透き通った梅酢が、少しずつ梅をひたしていく。それを見たとき、胸の奥が静かに動いた。
七月、梅雨が明けるころ、梅をかごに並べてベランダに干した。かごはふたつしか置けない狭さだが、隣の部屋に住む年配の女性が、洗濯物を取り込みながら「梅干しは三日三晩、お日さまに当てるといいのよ」と教えてくれた。夕立が降りそうな日は、仕事を早く切り上げて帰った。逆に、晴れた日は、会社の窓から空を見上げて、梅のことばかり考えていた。同僚に「最近、機嫌がいいですね」と言われて、思わず笑ってしまった。
三日間干した梅は、しわが寄って、うっすらと赤く色づいていた。夜、ひとつだけ食べてみた。母のものに比べると、塩が強い。皮も少しかたい。しかし、初めて作ったにしては、まずまずの出来と言っていいだろう。ただ、食べ終わったあとに残ったのは、味の評価よりも、母がこの味を毎年のように守ってきたのだという、ぼんやりとした実感のほうだった。
夏の終わり、母に小さな瓶を送った。数日後、短いメモが返ってきた。「塩が強い。でも、悪くない。」ほんの一行ばかりのメモだったが、わたしは何度も読み返した。母の味に近づき得るのは、まだ何年も先だろう。けれども、来年も漬けるつもりだ。
瓶の底には、赤い梅酢が少し残っている。母が電話で、「捨てずに料理に使いなさい」と言っていた。今夜は、冷蔵庫に残っているきゅうりとみょうがを、その梅酢で和えてみようと思う。
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JLPT-style reading questions. Pick the best answer.
Q1
今年の母の梅干しは、以前のものとどう違いましたか。
The saltiness was softened and the plum aroma came first. 「塩の角が取れて、梅の香りが先に立つ。」
Q2
母は、カビが出た原因を何だと言いましたか。
Not drying the plums well and not wiping the jar with shochu. 「梅は、洗ったあとにしっかり乾かさないとだめよ。」
Q3
「わたし」が意外に思ったのは、どんなことですか。
Even her mother once ruined an entire first batch. 「わたしも最初の年は、全部だめにしたんだから。」
Q4
母が失敗してもやめなかったのは、なぜですか。
Father said he wanted her umeboshi even if salty. 「しょっぱくてもいいから、お前の梅干しがいいって。」
Q5
最後の場面で、「わたし」はどう考えていますか。
She is far from her mother's taste but will make it again next year. 「けれども、来年も漬けるつもりだ。」
Words in this story
Tab-separated, two columns. Paste into Anki.
段ボール だんボール — cardboard 酸っぱい すっぱい — sour 漬ける つける — to pickle 青梅 あおうめ — green (unripe) plum 乾かす かわかす — to dry 焼酎 しょうちゅう — shochu (distilled liquor) 拭く ふく — to wipe 梅酢 うめず — plum brine 透き通る すきとおる — to be transparent 干す ほす — to dry in the sun 同僚 どうりょう — coworker 供える そなえる — to offer (at an altar)
Grammar review
Patterns from this story. Find them again as you reread.
ちなみに
incidentally; by the way
ちなみに、これまで料理といえば、卵を焼くくらいしかしたことがない。
一応(いちおう)
just in case; for now; more or less
一応、インターネットで作り方を調べ、梅を一キロと塩を買って帰った。
だけに
precisely because; all the more since
簡単な作業であるだけに、失敗する理由などどこにもないと、わたしは完全に油断していた。
得る(うる/える)
can; it is possible that
梅仕事はね、どんなに気をつけても、失敗し得るものなのよ。
それなら
in that case
「それなら、カビが出てもおかしくないわね。」
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