The Night Before Moving
引っ越しの前の夜
引っ越しの前の夜、押し入れの奥から、古い段ボール箱が出てきた。
ガムテープは茶色く変色し、ところどころ剥がれかかっている。油性ペンで「アニメ・録画」と書かれた字は、確かに高校生のころの自分のものだった。
明日の朝には、引っ越し業者のトラックが来る。荷造りは夕方までに終えるつもりだったが、時計はもう十一時を回っていた。本棚の漫画を一冊ずつ手に取っては読み返し、そのたびに手が止まってしまったからだ。こういう作業は、整理というより、ただ思い出に浸る時間になりがちだ。それでも、この箱だけは、見なかったことにするわけにはいかなかった。
蓋を開けると、中にはディスクが三十枚ほど、薄いケースに入って並んでいた。一枚ずつに、やはり油性ペンで話数が書いてある。深夜アニメを録画して、焼いて、友人と貸し借りしていたものだ。今のように、見たいときに見たい作品を配信で選べる時代ではなかった。放送時間に合わせて、予約録画を何度も確認し、それでも失敗して泣いた夜もあった。
ケースの背には、タイトルの代わりに、友人が考えたあだ名のような略称が書いてある。他人が見れば意味不明の暗号だが、わたしには、一枚ごとに部屋の空気までよみがえってくる。
底のほうに、折りたたんだルーズリーフが一枚入っていた。広げてみると、見覚えのある友人の字で、こう書いてあった。
「十二話は絶対に見て。見終わったら、電話して。」
思わず笑ってしまった。確かに、あの作品の十二話は、見終わった直後に誰かと話さずにはいられないような回だった。十年前の自分は、実際に電話をかけたのだろうか。覚えていない。ただ、翌日の学校で、二人で一時間以上も語り合ったことだけは、はっきりと記憶に残っている。
あの作品を見ていたのは、高校二年の冬だ。毎週金曜日の夜、わたしたちは友人の部屋に集まった。部屋は暖房が効かず、二人とも毛布にくるまっていた。最終回の前の週、友人はなぜか急に無口になり、わたしが何を聞いても「来週まで言わない」としか答えなかった。結局、最終回はわたしの予想とはまったく違う終わり方で、見終わったあと、二人とも黙ったまま、しばらくテレビの前から動けなかった。
その友人とは、大学に進んでから少しずつ連絡が減り、今では年賀状のやりとりだけになっている。疎遠になったのは、喧嘩をしたからではない。ただ、生活の時間が合わなくなったのだ。
引っ越し先の部屋は、今の部屋より狭い。荷物は減らさざるを得ない。段ボールの底に残るディスクを、全部持っていくことはできないし、そもそも、再生できるプレーヤーが家にあるかどうかもあやしい。合理的に考えれば、処分するのが正しいに決まっている。
けれども、ルーズリーフを手にしたまま、わたしはしばらく動けなかった。捨てるのが惜しいのは、ディスクそのものではない。あのころ、同じ画面を見て、同じ場面で息をのんだ人がいた、という事実だ。それは、データとして保存できるものでも、配信サービスで買い直せるものでもない。
少し迷ってから、わたしはスマートフォンを手に取った。連絡先の一番下にある名前を探し出し、短いメッセージを書いた。
「久しぶり。押し入れから、昔のディスクが出てきたよ。十二話のメモも。覚えてる?」
送信ボタンを押す前に、何度か書き直した。唐突に思われないだろうか、迷惑ではないだろうか。そう考えると、指が止まってしまう。しかし、今送らなければ、また十年がたってしまうような気がした。
思い切って送信すると、画面を伏せて、残りの荷造りに戻った。ディスクは、全部を持っていくことはあきらめ、一番思い入れのある三枚だけを選んで、緩衝材で包んだ。残りは、明日の朝、資源ごみに出すことにする。
ガムテープで最後の箱を閉じようとしたとき、机の上のスマートフォンが短く震えた。画面には、たった一行だけ。
「覚えてるに決まってるでしょ。今度、会おうよ。」
わたしは、ガムテープを持ったまま、しばらく画面を見つめていた。それから、ゆっくりと返信を打ち始めた。部屋のあちこちには、まだ荷造りの終わっていない物が散らばっている。明日の朝は、きっと早く起きられないだろう。それでも、悪い夜ではなかった。
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JLPT-style reading questions. Pick the best answer.
Q1
「こういう作業は、整理というより、ただ思い出に浸る時間になりがちだ」とは、どういうことですか。
Packing turns into dwelling on memories, so work stalls. 「本棚の漫画を一冊ずつ手に取っては読み返し、そのたびに手が止まってしまったからだ。」
Q2
「それは、データとして保存できるものでも、配信サービスで買い直せるものでもない」の「それ」は、何ですか。
It is the shared experience, not the discs themselves. 「あのころ、同じ画面を見て、同じ場面で息をのんだ人がいた、という事実だ。」
Q3
メッセージを送る前に、何度も書き直したのは、なぜですか。
The narrator worried about seeming abrupt or a nuisance. 「唐突に思われないだろうか、迷惑ではないだろうか。」
Q4
「わたし」と友人が疎遠になったのは、なぜですか。
Not a quarrel, just mismatched daily schedules. 「疎遠になったのは、喧嘩をしたからではない。ただ、生活の時間が合わなくなったのだ。」
Q5
「それでも、悪い夜ではなかった」とありますが、そう思ったのはなぜですか。
The friend replied warmly and suggested meeting. 「覚えてるに決まってるでしょ。今度、会おうよ。」 Packing was in fact unfinished.
Words in this story
Tab-separated, two columns. Paste into Anki.
押し入れ おしいれ — closet (traditional) 変色 へんしょく — discoloration 業者 ぎょうしゃ — company, contractor 荷造り にづくり — packing 録画 ろくが — recording (video) 疎遠 そえん — drifting apart 処分 しょぶん — disposal 惜しい おしい — a pity to lose 唐突 とうとつ — sudden, abrupt 思い入れ おもいいれ — emotional attachment 緩衝材 かんしょうざい — cushioning material 散らばる ちらばる — to be scattered
Grammar review
Patterns from this story. Find them again as you reread.
だけは
at least this much; as far as this goes
それでも、この箱だけは、見なかったことにするわけにはいかなかった。
ものだ
used to; it's the way things are (nostalgia, general truth)
深夜アニメを録画して、焼いて、友人と貸し借りしていたものだ。
ずにはいられない / ないではいられない
cannot help doing
見終わった直後に誰かと話さずにはいられないような回だった。
ざるを得ない(ざるをえない)
cannot help but; have no choice but
荷物は減らさざるを得ない。
に決まっている(にきまっている)
surely; no doubt
合理的に考えれば、処分するのが正しいに決まっている。
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