Setting Up Before the Doors Open
設営の朝
朝の六時、わたしは海沿いの展示場の搬入口に立っていた。今日は同人誌即売会の設営ボランティアとして、初めてこの場所に来た。
きっかけは、先月の飲み会だった。会社の同期の佐伯が、イベントの運営を手伝っていると話したのだ。わたしは買う側として何度も行ったことがあるだけで、裏側のことは何も知らなかった。「どうせ暇なんだろう。一回来てみろよ」と言われ、半分冗談のつもりで「行く」と答えてしまった。
現場に着くと、佐伯は黄色いベストを着て、もう走りまわっていた。ボランティアは二十人ほどで、年齢もばらばらだった。大学生もいれば、わたしの父くらいの年の男性もいる。簡単な説明のあと、わたしは長机の運び係に回された。
広いホールの床には、白いテープで四角い区画が引かれている。机を置く位置の印だ。「この線にぴったり合わせてね。ずれると、通路が狭くなるから」と、リーダーの女性が言った。彼女は十年以上この仕事を続けているそうで、手を動かしながら、ほかの人にも声をかけていた。
最初の三十分は、ちっとも楽しくなかった。机は思ったより重く、手袋をしていても指が痛い。しかも、何百台もある。わたしは「どうせ最後まで終わらないんじゃないか」と思いながら、黙って運んだ。
ところが、机が少しずつ並び始めると、様子が変わってきた。ただの四角い板だったものが、床のテープに沿って整然と並び、ホール全体が一つの町のように見えてきたのだ。隣で運んでいた男性が言った。
「この景色を見たくて、毎回来てるんだよ。開場前の、誰もいない会場がいちばんいい」
彼は何年も前に、自分でも本を出していたらしい。今は描くのをやめたが、設営だけは続けているという。そういうふうに関わり続ける人もいるのか、とわたしは思った。
昼前、休憩の時間に、わたしは佐伯と並んで床に座り、配られたおにぎりを食べた。佐伯も、最初は買う側だったという。
「三年前に、このイベントで買った本をきっかけに、運営に興味を持ったんだ。それまでは、設営なんて、どうせ誰かがやってくれるものだと思ってた」
「今は違うのか」
「違うね。誰かがやってくれるんじゃなくて、誰かがやらないと、何も始まらないんだ」
彼はそう言って、残りのおにぎりを口に入れた。わたしは、自分が今まで何冊もの本を買ってきたのに、机がどこから来たのか、一度も考えなかったことを恥ずかしく思った。
九時ごろ、サークルの参加者たちが入り始めた。大きな箱を台車に載せた人、小さなかばんを一つだけ持った人。みんな、自分の机を探して通路を歩いていく。わたしたちは、迷っている人に「何番のお席ですか」と声をかけ、場所を案内した。
そのうち、わたしは一人の女性に呼び止められた。彼女は紙を見せながら、困った顔をしていた。
「すみません、私の席が見つからなくて」
紙には「ちの十二」と書いてある。わたしはホールの地図を見て、「ち」の島に案内した。島の端の、いちばん通路に近い席だった。
「ここですね。机はもう置いてあります」
彼女は机をじっと見て、それから小さく息を吐いた。
「ありがとうございます。初めての参加なんです。夜までずっと、緊張して眠れなくて」
そのとき初めて、わたしは気づいた。わたしたちが運んだ机は、誰かにとっては、一年かけて作った本を初めて並べる場所なのだ。ただの重い板ではなかった。
彼女は箱から、明るい色の表紙の本を取り出して、一冊ずつ机に置いていった。布をかけ、小さな値札を立てて、最後に見本の一冊を開いた。わたしは少し離れたところから、その様子を見ていた。
開場の十分前、リーダーが全員を集めた。
「今日も、ありがとう。あとは参加者の人たちの時間です。私たちは見えないところで支えるだけ」
その言葉に、佐伯がにやりと笑った。わたしにだけ聞こえる声で、「な、悪くないだろう」と言った。
扉が開き、大勢の人がホールに流れこんできた。わたしは壁際で水を飲みながら、人の波を見ていた。あの女性の机の前にも、少しずつ人が立ち止まり始めた。最初の一冊が売れた瞬間、彼女が両手で口をおさえたのが見えた。
夕方、片づけが終わったあと、佐伯に聞かれた。
「また来るか」
わたしは少し考えてから、うなずいた。
「次は、もっと早く来て、床のテープを貼るところから手伝いたい」
帰りの電車の中で、わたしは今日の経験をきっかけに、これまで見ていたものが少し違って見えるようになったことに気づいた。机の並べ方、通路の広さ、人の動き。そういうふうに、会場全体を見る目ができたのだ。
電車の明かりの下で、手袋のあとが赤く残った指を見た。ちっとも痛くないと言えば嘘になる。それでも、あの女性が口をおさえたときの顔を思い出すと、明日の仕事も、少しだけ楽に思えた。
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JLPT-style reading questions. Pick the best answer.
Q1
「わたし」が設営ボランティアに参加するきっかけは、何でしたか。
A coworker, Saeki, mentioned helping run the event. 「会社の同期の佐伯が、イベントの運営を手伝っていると話したのだ。」
Q2
最初の三十分が楽しくなかったのは、なぜですか。
The tables were heavy and hurt her fingers even with gloves. 「机は思ったより重く、手袋をしていても指が痛い。」
Q3
隣で運んでいた男性が、設営を続けている理由は何ですか。
He wants to see the empty hall before the doors open. 「この景色を見たくて、毎回来てるんだよ。」
Q4
設営について、佐伯の考えはどう変わりましたか。
He used to assume someone else would do it; now he thinks nothing starts unless someone does. 「誰かがやってくれるんじゃなくて、誰かがやらないと、何も始まらないんだ」
Q5
「ただの重い板ではなかった」と、「わたし」が思ったのは、なぜですか。
Seeing the first-time exhibitor, she realized the desks are where someone's year of work is first displayed. 「わたしたちが運んだ机は、誰かにとっては、一年かけて作った本を初めて並べる場所なのだ。」
Words in this story
Tab-separated, two columns. Paste into Anki.
設営 せつえい — setting up (an event or venue) 搬入口 はんにゅうぐち — loading entrance 長机 ながつくえ — long table 区画 くかく — section, marked area 通路 つうろ — aisle 整然と せいぜんと — in neat order 参加者 さんかしゃ — participant 見本 みほん — sample copy 開場 かいじょう — opening of doors 片づけ かたづけ — tidying up 支える ささえる — to support 緊張 きんちょう — nervousness
Grammar review
Patterns from this story. Find them again as you reread.
何も~ない(なにも~ない)
nothing; not at all (nani mo ... nai)
わたしは買う側として何度も行ったことがあるだけで、裏側のことは何も知らなかった。
どうせ
anyway; in any case; since it's all the same
「どうせ暇なんだろう。」
ちっとも~ない
not at all (with negative)
最初の三十分は、ちっとも楽しくなかった。
しかも
moreover; and yet
しかも、何百台もある。
に沿って(にそって)
along; in line with
床のテープに沿って整然と並び…
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