Urashima Taro
浦島太郎
昔、ある海辺の村に、浦島太郎という漁師が住んでいた。年老いた母とふたり、舟ひとつで細々と暮らしを立てていたが、心根のやさしい男で、村人からも慕われていた。
ある夕暮れのことである。漁を終えて浜を歩いていると、子どもたちが一匹の亀を取り囲み、棒でつついたり、ひっくり返したりして遊んでいた。亀は固い甲羅に首を引っ込め、じっと耐えているようであった。
「かわいそうに。放してやりなさい。」
太郎が諭しても、子どもたちは聞こうとしない。そこで太郎は、持ち合わせのいくらかの銭を子どもたちに握らせ、亀を引き取った。波打ち際にそっと亀を下ろすと、亀は幾度も太郎のほうを振り返りながら、夕凪の海へ消えていった。
それから数日が過ぎた。太郎が沖で釣り糸を垂れていると、水面が静かに盛り上がり、あの亀が顔を出した。
「先日は危うい命を助けていただきました。お礼に、龍宮へご案内いたしましょう。わたくしの背にお乗りください。」
太郎は思わず辺りを見回したが、沖には自分の舟のほかに人影ひとつない。波の上で、亀はまっすぐに太郎を見上げていた。その黒く澄んだ目には、あの夕暮れの浜で見たものと同じ、静かな光が宿っていた。
亀が口をきいたことに太郎は驚いたが、不思議と恐ろしさは感じなかった。言われるままにその背に身をあずけると、亀は波を分けて深い海へと潜っていった。水は冷たくなるどころか、しだいに柔らかな光を帯び、やがて行く手に、珊瑚の門をそなえた壮麗な宮殿が姿を現した。
宮殿の主は、乙姫と名乗る気品あふれる女性であった。
「ようこそおいでくださいました。亀の命の恩人を、心からおもてなしいたします。」
広間には、鯛や鮃が袖をひるがえして舞い、珍しい果実と美酒が絶え間なく運ばれてきた。四季の景色を一度に映し出す庭では、春の桜と秋の紅葉が、同じ風に揺れていた。太郎は時のたつのも忘れ、夢のような日々を過ごした。
夜になると、天井の貝殻がひとつ、またひとつと淡く光り、広間は星空の底のように静まった。乙姫は縁に腰を掛け、遠い海の話を聞かせてくれた。嵐の夜に沈んだ舟のこと、月の光を食べて育つ魚のこと。太郎は耳を傾けながら、これほど安らかな夜が、かつて自分にあっただろうかと考えた。釣り糸を垂れても獲物のない朝、病みがちな母の咳を聞いた夜。そうした暮らしの苦さは、ここでは波に洗われたように薄れていた。しかし、薄れたことがかえって、太郎の胸のどこかに、小さな空洞をつくっていたのである。
いつしか三年が過ぎた。ある朝、太郎はふと、浜辺の潮の香りを思い出した。母は、村は、どうしているだろう。一度そう思うと、美しい庭の花も、楽の音も、遠い世界のもののように感じられた。
「乙姫さま、まことに名残惜しいのですが、わたくしは村へ帰らねばなりません。」
乙姫は、しばらく黙って太郎を見つめていた。その横顔に、ほんの一瞬、寂しげな影がよぎった。やがて、静かにうなずいた。
「引き止めても、あなたのお心はもう故郷にあるのですね。では、これをお持ちください。」
差し出されたのは、美しい螺鈿の玉手箱であった。
「これは、決して開けてはなりません。たとえどのようなことがあっても。」
「なぜ開けてはならないのですか。」太郎が尋ねても、乙姫は、ただ寂しく微笑むばかりであった。その言葉の重さを測りかねたまま、太郎は箱を抱え、亀の背に乗って浜へ戻った。
来たときと同じように、亀は光の帯をくぐって浮かび上がった。水面を割って顔を出した太郎は、懐かしい潮の匂いを胸いっぱいに吸い込み、思わず笑みをこぼした。母は驚くだろう。みやげ話を聞かせたら、どんな顔をするだろう。そう思うと、足は自然に早くなった。
ところが、見慣れたはずの浜は、どこか様子が違っていた。家並みは見知らぬものに変わり、道を行く人々の装いも、聞こえてくる言葉の調子も、太郎の知るものではなかった。母とふたりで暮らした家のあった場所には、苔むした石が転がっているばかりである。
「浦島太郎という者の家を、ご存じありませんか。」
通りかかった老人は、首をかしげた。
「浦島太郎。ああ、そういえば、何百年も昔に、海へ出たきり帰らなかった漁師がいたと、祖父から聞いたことがあるが。」
太郎は、その場に立ちつくした。龍宮で過ごした三年は、この世の何百年にあたっていたのである。母も、友も、見知った顔はすべて、とうの昔に土へ還っていた。波の音だけが、昔と少しも変わらずに響いていた。
浜に腰を下ろし、太郎は長いあいだ海を眺めていた。日が傾き、水平線が赤く染まるころ、膝の上の玉手箱が、ふいに重く感じられた。
乙姫は、開けてはならないと言った。しかし、この箱のほかに、自分が確かにあの国にいたことを証明するものは何もない。帰る場所も、語り合う相手も失った今、この箱だけが、太郎と過ぎ去った時とをつなぐ最後の糸のように思われた。
太郎は、震える指で、紐をほどいた。
蓋が開くと、箱の中から白い煙が立ちのぼった。煙は静かに太郎を包み、夕暮れの空へ溶けていった。
はっとして手を見ると、そこにあったのは、深いしわの刻まれた老人の手であった。黒かった髪は雪のように白く、背も丸くなっている。箱に封じられていたのは、太郎が龍宮で受けるはずだった、何百年ぶんの歳月であった。
太郎は、しかし、取り乱さなかった。ただ、ゆっくりと立ち上がり、沖のほうへ目を向けた。夕映えの海の向こうに、あの珊瑚の門と、乙姫のやさしい微笑みが、かすかに見えたような気がした。
波は、変わらぬ調べで寄せては返していた。老いた太郎は、いつまでもそこに立ち、その音に耳を傾けていたという。
Check your reading
JLPT-style reading questions. Pick the best answer.
Q1
太郎が子どもたちから亀を引き取ったのは、なぜですか。
He pitied the turtle. 「かわいそうに。放してやりなさい。」と言い、銭を握らせて亀を引き取った。
Q2
「太郎の胸のどこかに、小さな空洞をつくっていた」とありますが、この表現は何を表していますか。
Life's bitterness had faded, yet that very fact left a small emptiness in him, which leads to his homesickness. 「暮らしの苦さは…薄れていた。しかし、薄れたことがかえって…空洞をつくっていた」
Q3
太郎が玉手箱を開けたのは、なぜですか。
The box seemed the last thread to the time he had lost. 「この箱だけが、太郎と過ぎ去った時とをつなぐ最後の糸のように思われた。」
Q4
「波の音だけが、昔と少しも変わらずに響いていた」は、どんな効果をもっていますか。
Mother, friends and the town are all gone; only the sound of the waves is unchanged, which sharpens his loneliness. 「母も、友も、見知った顔はすべて、とうの昔に土へ還っていた。」
Q5
玉手箱の煙は、何を表していましたか。
The text says the box held the centuries Taro should have lived in the palace. 「箱に封じられていたのは、太郎が龍宮で受けるはずだった、何百年ぶんの歳月であった。」
Words in this story
Tab-separated, two columns. Paste into Anki.
漁師 りょうし — fisherman 諭す さとす — to admonish, to persuade gently 壮麗 そうれい — magnificent 気品 きひん — dignity, elegance 名残惜しい なごりおしい — reluctant to part 故郷 こきょう — hometown 螺鈿 らでん — mother-of-pearl inlay 還る かえる — to return (to the earth, to one's origin) 装い よそおい — attire, appearance 歳月 さいげつ — years, the passing of time 取り乱す とりみだす — to lose one's composure 調べ しらべ — melody, tone
Grammar review
Patterns from this story. Find them again as you reread.
かつて
once; formerly; never (with neg)
太郎は耳を傾けながら、これほど安らかな夜が、かつて自分にあっただろうかと考えた。
More stories to read

空き家のメーター
The Meter at the Empty House

紙ひこうき堂の最後の一冊
The Last Copy of Paper Airplane Press

声の遺失物
The Lost Voice

木曜日の理髪店
The Barber Shop on Thursdays

Your teacher
Read stories like this one, with a teacher beside you
Hi, I'm Yuuki, a native Japanese teacher in Tokyo. My lessons are one-on-one and built around what you already love: anime, manga and the stories you read here. Bring any story from this page and we'll read it together, sort out the grammar that trips you up, and get your pronunciation sounding natural.
- 5.0358 reviews
- 2,112lessons taught
- 443students
- Top 1%italki teacher
Book a trial lesson · $1330 minutes · pick a time in your own timezone
