The Lost Voice
声の遺失物
駅の遺失物取扱所に勤めて、三十年になる。扱うのは傘や手袋、片方だけの靴下といった、ありふれた品がほとんどだ。ところが、この仕事を続けていると、ごくまれに、規則集のどこにも載っていない落とし物が届く。
その日は、朝から冷たい雨が降っていた。夕方、若い駅員が、小さな桐の箱を両手で持って、窓口に入ってきた。
「ホームのベンチの下に落ちていました。拾った方は、耳を近づけてみろと言うのですが」
蓋を少し開けると、箱の中から、かすかな女の人の声が聞こえた。「いってらっしゃい。気をつけてね」。それだけの短い声だった。声は、二、三度繰り返されると、すうっと消えた。
若い駅員は、顔を青くしている。私は、わざと物知りぶって、肩をすくめてみせた。驚いてはいけない。先輩からは、そう教わっている。声の落とし物は、年に一度か二度、確かに出るのだ。急いでいる人ほど、大切な言葉をうっかり落としていくらしい。
私は台帳を開き、「品名、声、女性、一件」と書き入れた。保管期間は三か月である。期間を過ぎれば、箱は空になり、声は雨と一緒に流れて消える。そうなればそれまでだ。持ち主は二度と取り戻せない。
若い駅員は、棚の前で首をかしげた。
「こういう落とし物は、ほかにもあるんですか」
「ある。十年ほど前には、笑い声が届いたことがあった。ホームで友人と別れた女の子が、帰りの階段で落としたらしい。三日後に、泣きはらした目で取りに来たよ」
「泣きはらした目で、笑い声を、ですか」
「笑い声は、別れたあとほど、よく落ちるものだからね」
私がそう答えると、若い駅員は、半信半疑のまま、それでも箱に向かって、小さく頭を下げた。
それから三日間、持ち主は現れなかった。私は昼の休みに、箱を棚の奥から出して、ときどき蓋を開けてみた。毎回、同じ声が、同じ調子で「いってらっしゃい」と言う。聞くたびに、声の主が台所の戸口で小さく手を振っている姿が、目に浮かぶようだった。
四日目の朝、背広を着た三十がらみの男が、窓口の前に立った。落ち着かない様子で、鞄の取っ手を握りしめている。
「あの、変なことを伺いますが、ここに『声』は届いていませんか」
私は黙って、箱を差し出した。男は蓋を開け、耳を近づけた。そして、しばらく動かなかった。
「母です。間違いありません」
男の話は、こうだった。三年前に父を亡くしてから、母は、一人で暮らしている。男は毎朝、この駅から電車に乗るが、母は、決まって玄関まで出てきて、「いってらっしゃい」と言う。ところが、このところ、仕事が忙しいだの、疲れているだのと言い訳をして、返事をしなくなった。靴をはき、黙って出ていく。母の声は、背中に当たって、そのまま足もとに落ちたのだという。
「おかしな話ですが、先週の月曜、ここのホームでふと気がついたんです。朝の声が、ついてきていない、と」
私は、返す言葉に迷った。人のことは言えないのだ。三十年この窓口に座りながら、家へ帰ると、ただいまの一言さえ、ろくに言わない夜がある。妻は何も言わずに、味噌汁を温めてくれる。声を落としているのは、案外、私のほうなのかもしれない。
「それなら、受け取ってお帰りください」と、私は言った。
ところが、男は首を横に振った。
「いえ、その前にひとつお願いがあります。もしかして、私が落とした声も、届いていませんか。母に返せなかった方の声です」
私は少し考えて、棚の一番奥から、もうひとつ、ごく小さな白い箱を取り出した。こちらは一週間前、改札の近くで拾われたものだ。蓋を開けると、低い男の声が、ぼそりと言った。「行ってきます」。あまりにも小さく、聞き取りにくい声だった。
「言うつもりは、あったんです。喉まで出ていたのに」
男は、苦笑いをした。私は、あくまでも事務的な口調を保ちながら、台帳の二つの欄に印を押した。事務的でなければ、こちらが泣いてしまいそうだった。
「お二つとも、お返しします。ただし、規則では、返却は本人にかぎります。お母さんの声はあなたが受け取り、あなたの声は、あなたの手で持ち主に届ける。それでよろしいですね」
男は、深くうなずいた。二つの箱を鞄にしまうと、ためらいがちに言った。
「届けるといっても、どうやって」
「簡単なことですよ。今夜、家に帰って、玄関で言えばいい。声は、持ち主のところへ戻りたがっているものです」
男は礼を言って、足早に出ていった。その背中に、私はつい、余計な一言を付け加えたくなった。
「声なら、こうして拾いに来ることもできます。しかし、相手がいなくなってしまえばそれまでです。落としたと気づいたうちに、拾っておくにこしたことはありません」
男は振り返り、帽子を持たない手で、頭を軽く下げた。そのまま、雨の中へ消えていった。
窓口に、静けさが戻った。ストーブの上で、やかんがかすかに音を立てている。私は、傘の列と手袋の山を、ぼんやりと眺めた。落とし物のひとつひとつに、誰かの慌ただしい朝があり、疲れた夜がある。そう思うと、いつもは無愛想に見えるこの棚が、少しだけ温かく見えた。
一週間後、小包が届いた。中には、あの二つの箱が入っていた。どちらも、軽い。蓋を開けても、もう何も聞こえなかった。添えられた紙には、短い文が一行だけあった。
「言えました。母は、お帰りと言ってくれました」
台帳の「返却済」の欄に印を押しながら、私は考えた。声など、素直に出せばいいだろうに、人は、近い相手ほど、言葉を落としてしまう。あの二つの声も、落ちるべくして落ちたのだろう。そして、拾われるべくして、拾われたのだ。
私は空の箱を、そっと棚に戻した。次に誰かが、大事な言葉を落としていくまで、ここで静かに待たせておこう。
窓の外では、雨が、いつの間にか上がっていた。
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JLPT-style reading questions. Pick the best answer.
Q1
若い駅員が顔を青くしているのに、「私」が驚かなかったのは、なぜですか。
Voices turn up once or twice a year, as taught by seniors. 「声の落とし物は、年に一度か二度、確かに出るのだ。」
Q2
声の保管期間を過ぎると、どうなりますか。
The box empties, the voice dissolves, and the owner can never retrieve it. 「期間を過ぎれば、箱は空になり、声は雨と一緒に流れて消える。」
Q3
「母の声は、背中に当たって、そのまま足もとに落ちた」とは、どういうことですか。
He left without answering her daily 'itterasshai'. 「母の声は、背中に当たって、そのまま足もとに落ちたのだという。」
Q4
「私」が、あくまでも事務的な口調を保ったのは、なぜですか。
If he were not businesslike, he would cry. 「事務的でなければ、こちらが泣いてしまいそうだった。」
Q5
「人は、近い相手ほど、言葉を落としてしまう」とは、どういう意味ですか。
We fail to voice honest feelings to those nearest to us. 「人は、近い相手ほど、言葉を落としてしまう。」
Words in this story
Tab-separated, two columns. Paste into Anki.
遺失物 いしつぶつ — lost property 窓口 まどぐち — counter, service window 落とし物 おとしもの — a lost item 保管 ほかん — storage, safekeeping 持ち主 もちぬし — owner 台帳 だいちょう — ledger 言い訳 いいわけ — excuse 改札 かいさつ — ticket gate 返却 へんきゃく — return (of an item) 苦笑い にがわらい — a wry smile
Grammar review
Patterns from this story. Find them again as you reread.
ばそれまでだ / たらそれまでだ
if that happens, it is all over
そうなればそれまでだ。
ものだから
because (explaining)
「笑い声は、別れたあとほど、よく落ちるものだからね」
だの~だの
and the like; listing complaints etc.
仕事が忙しいだの…
あくまでも
to the very end; no matter what; only ever
私は、あくまでも事務的な口調を保ちながら、台帳の二つの欄に印を押した。
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