The Last Copy of Paper Airplane Press
紙ひこうき堂の最後の一冊
午後三時を回ると、会場の空気は目に見えて変わる。開場直後の熱気は、列をなしていた人々とともに引き、通路にはキャリーカートを引く音ばかりが残った。私のスペースの机には、新刊が一冊だけ積まれている。五十部刷って四十九部が出た。サークル「紙ひこうき堂」の、これが最後の本である。
十年続けた。始めたのは二十八のときで、きっかけはつまらないものだった。仕事帰りの電車で、ある漫画の最終回を読み終え、その場で泣きそうになったのを人に見られまいと窓の外を見つめていた。家に着いてもおさまらず、ペンタブを引っぱり出して、描かずにはいられなかったのだ。感想を言う相手がいないなら、絵にして本にするしかない、と当時の私は思い込んでいた。
それから十年、年に二回、会場の隅の机に本を並べてきた。部数は決して多くない。それでも、毎回必ず買いに来てくれる常連が十人ほどいて、彼らの顔と、彼らが好む本の種類を覚えるのが、私にはなによりの楽しみだった。ところが、昨年、実家の事情で地元に戻ることが決まり、週末ごとに東京へ通って原稿を描く生活は、続けられなくなった。サークルの解散を余儀なくされたのである。
最後の新刊は、十年分のあとがきのような内容にした。初めて本を作った日の話、搬入の台車をひっくり返した話、雨で人が来ず、隣の席の人と二人でカップ麺を分け合った話。描きながら、あのとき隣にいた人のことばかり考えていた。名前は日野さんという。当時すでに二十年選手で、素人の私に、釣り銭の用意から値札の書き方まで、聞かれてもいないことまで教えてくれた人だ。
解散を決めてから、私は過去の本をすべて読み返した。拙い線、直し損ねた誤字、ページの端に残った消しゴムのあと。どれも恥ずかしいはずなのに、読み進めるうちに、不思議と誇らしさのほうが勝ってきた。作品の出来ではなく、続けたという事実そのものが、机の上に積み重なっている気がしたのである。
日野さんとは、三年前に彼女がサークル活動をやめて以来、連絡が途絶えていた。解散の告知を出したところで、届くかどうかも分からない。それでも、隣のスペースが次々に片づけを始めるのをよそに、私は何度も入口のほうを振り返っていた。来るはずがないと自分に言い聞かせながら。
閉場の三十分前、通路の向こうから、黒い帽子をかぶった小柄な女性が歩いてきた。一般参加者の列にまぎれていたが、歩き方でわかった。少し左肩を下げて歩く癖は、十年前と変わっていない。「久しぶり。まだ描いてたんだね」と彼女は言った。私は立ち上がったものの、挨拶の言葉が出てこなかった。
日野さんは新刊を手に取り、表紙を眺め、それからあとがきのページをゆっくりとめくった。読み終えるまでに、五分はかかっただろうか。その間、私は釣り銭の袋を意味もなく数え直していた。「この、カップ麺の話」と彼女がようやく口を開いた。「私は覚えてないんだ。ごめん。でも、書いてあるなら、本当にあったんだろうね」
落胆しなかった、と言えば嘘になる。だが、同時に妙な安堵もあった。十年間、私は隣で起きたささやかな出来事を、自分だけが大事に抱えているのではないかと恐れていたのだ。覚えていないということは、あの人にとっては、それが特別でもなんでもない日常だったということになる。それなら、私が受け取ったものの大きさは、あの人の気前のよさならではのものだったのだろう。
「一冊ください」と日野さんは言った。値札どおりの五百円玉を机に置く手つきは、昔、釣り銭の数え方を教えてくれたときと少しも違わなかった。私が袋に入れようとすると、彼女は首を振って、鞄から古びた薄い冊子を取り出した。表紙の角が丸くなった、見覚えのある本だった。私が十年前、初めて作った本である。
「あの日、お祝いのつもりで、最初の一冊を買ったの。うしろを見てごらん」と日野さんは言った。奥付のすぐ下に、鉛筆の細い字で一行だけ書き込まれていた。「次は、もう少し大きな字で描くこと。読みにくいので」。十年間、私が一度も目にしたことのない一行である。そもそも、この本が日野さんの手元に残っているとは思いもしなかったのだ。
私は笑わずにはいられなかった。笑いながら、目の奥が熱くなるのを感じた。確かに、あの本の字は小さすぎた。十年かけて少しずつ大きくなったことに、今の私は気づいてもいなかった。「解散するんだってね。告知、見たよ」と日野さんは続けた。「でも、これで終わりじゃないでしょう。描くのをやめる人は、最後の本にあとがきなんて書かない」
反論しようとして、言葉に詰まった。実家の仕事が落ち着いたら、年に一度くらいは小さな本を作るかもしれない、という考えが、確かに心の隅にあったからだ。誰にも言っていなかったことを、十年ぶりに会った人に見抜かれている。「あなたの次の本を、待ち望んでやまない読者が、ここに一人いるんだから」。そう言って、彼女は買ったばかりの新刊を鞄にしまった。
閉場のアナウンスが流れ、周囲では撤収が始まった。日野さんは軽く手を振って、人波の中へ消えていった。机の上には、釣り銭の袋と、空になった積み台だけが残っている。四十九部は全部誰かの手元に渡った。サークルは、今日で終わる。それでも、この十年を続けてこられたのは、隣に日野さんがいればこそだった。
ダンボールを畳みながら、私はカレンダーアプリを開き、半年先の即売会の日程を調べた。申し込みの締め切りは来月末。まだ、何も決めていない。ただ、次に机に並べる本の表紙は、少し大きな字で描こうと思った。
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JLPT-style reading questions. Pick the best answer.
Q1
「私」が、日野さんは新刊のカップ麺の話を覚えていないと聞いて、少しほっとしたのは、なぜですか。
She realized it was an ordinary day for Hino, so what she received came from Hino's generosity. 「覚えていないということは、あの人にとっては、それが特別でもなんでもない日常だったということになる。」
Q2
日野さんが「これで終わりじゃないでしょう」と言ったのは、なぜですか。
Hino reasons that someone who is quitting would not write an afterword in the final book. 「描くのをやめる人は、最後の本にあとがきなんて書かない」
Q3
「隣に日野さんがいればこそだった」とありますが、なぜ「〜ばこそ」という形が使われていますか。
〜ばこそ stresses the one real reason: she could keep going only because Hino was there. 「この十年を続けてこられたのは、隣に日野さんがいればこそだった。」
Q4
「サークルの解散を余儀なくされたのである」は、どんな意味を表すための表現ですか。
余儀なくされる means having no other choice because of circumstances; here her family situation ended the weekly trips. 「サークルの解散を余儀なくされたのである。」
Q5
最後に「私」が半年先の即売会の日程を調べたのは、なぜですか。
She had secretly thought she might make a small book again, and Hino saw through it. 「年に一度くらいは小さな本を作るかもしれない、という考えが、確かに心の隅にあった」
Words in this story
Tab-separated, two columns. Paste into Anki.
即売会 そくばいかい — doujin sales event 搬入 はんにゅう — bringing goods into a venue 常連 じょうれん — regular customer 釣り銭 つりせん — change (money) 閉場 へいじょう — closing of a venue 撤収 てっしゅう — packing up and leaving 安堵 あんど — relief 冊子 さっし — booklet 奥付 おくづけ — colophon (publication info page) 余儀なくされる よぎなくされる — to be forced to
Grammar review
Patterns from this story. Find them again as you reread.
を余儀なくされる(をよぎなくされる)
be forced to
サークルの解散を余儀なくされたのである。
損なう / 損ねる / 損じる(そこなう / そこねる / そんじる)
fail to; do wrongly
拙い線、直し損ねた誤字、ページの端に残った消しゴムのあと。
ようが / ようと
even if (volitional)
どれも恥ずかしいはずなのに、読み進めるうちに、不思議と誇らしさのほうが勝ってきた。
たところで
even if
解散の告知を出したところで、届くかどうかも分からない。
をよそに
ignoring; in spite of
隣のスペースが次々に片づけを始めるのをよそに…
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