The Tofu Maker's Last Morning
豆腐屋の最後の朝
その豆腐屋の存在を知ったのは、取材で訪れた商店街の理髪店の主人の、何気ない一言からだった。「向かいの豆腐屋は、今月いっぱいで店を閉めるそうですよ。あそこの木綿を食べたら、よそのは食べられなくなる」
食を扱う雑誌の仕事を二十年続けてきた私は、そうした評判をいちいち真に受けるほど素直ではない。しかし、その日の仕事は午前中に片づいており、帰りの電車まで三時間ほどあった。昼食がてら、その店をのぞいてみることにした。
店は、アーケードの外れの、古い木造の二階家だった。間口は狭く、ガラス戸の向こうに、水を張った大きな槽が見える。入ってみると、白い前掛けをした老人が、無言で豆腐を切り分けていた。店主の坂口氏である。八十に近いはずだが、背筋は伸び、包丁を持つ手に迷いがない。
「一丁、いただけますか」
「今日の分は、朝の七時に売れましたよ」
店主は顔も上げずに言った。棚には、一丁も残っていない。私が落胆したのを見て、奥から出てきた娘らしい女性が、苦笑しながら言った。
「閉店の話が広まってから、毎朝、開店前に行列ができるんです。父は、昔からの客を優先すると言って聞かなくて」
私は事情を話し、せめて作るところだけでも見せてもらえないかと頼んだ。意外なことに、店主は少し考えてから、「明日の朝三時に来なさい」と言った。ただし、写真は撮らないこと、記事にするかどうかは見てから決めること、という条件つきだった。
翌朝、私は散歩がてら、暗い商店街を歩いて店へ向かった。午前三時の街には、風の音しかない。店の中では、すでに大釜から湯気が立ち上っていた。
作り方は、驚くほど単純である。前の晩から水に浸した大豆をすりつぶし、釜で煮て、布で絞る。絞った豆乳に、にがりを打つ。それだけだ。だが、その「それだけ」の中に、湯の温度、にがりを打つ間合い、混ぜる手の速さといった無数の判断が詰まっている。店主はそのひとつひとつを、数字ではなく、湯気の色や匂いで決めていた。
「正直に言いましょう」
店主は、型に布を敷きながら言った。
「娘は、機械を入れて続けようと言う。大きな店に卸せば、商売は成り立つ。だが、私は、機械で作った中途半端なものを売るくらいなら、やめたほうがましだと思っている」
娘は、その言葉に何も返さなかった。あとで聞けば、父と娘は、半年のあいだ、この話で一言も口をきいていないという。父は昔から、言いたい放題に言うくせに、肝心なことは何も話さない人だったそうだ。
夜が明けるころ、最初の豆腐が出来上がった。店主は、切ったばかりの一切れを、塩も醤油もつけずに、私の手のひらにのせた。
口に入れた瞬間、私は言葉を失った。甘いのである。大豆の甘さが、冷たさの奥から、ゆっくりと広がってくる。これまで食べてきた豆腐は何だったのかと、思わずにはいられなかった。これほどの味があと十日で消えてしまうとは、昨日の昼に店の戸を開けたときには、想像だにしなかった。
店の前には、開店の一時間前から人が並びはじめた。杖をついた老婦人も、ベビーカーを押した若い夫婦もいる。店先の桶には、おからが山のように盛られ、「ご自由にお持ちください」の札が立てられていた。持ち帰り放題である。客たちは、礼を言い、豆腐を受け取り、そして、店主に何かしら声をかけて帰っていった。
「この味は、うちの子の離乳食の最初でした」
「主人の最後の食事も、ここの冷奴でした」
店主は、そのたびに黙ってうなずくだけだった。
昼過ぎ、店主は私を二階に案内した。そこには、使いこまれた木の型が、壁一面に並べてあった。祖父の代から使っている型で、角は丸くすり減り、木肌は飴色に光っている。「型は、豆腐の顔を決めるんです。同じ豆乳でも、この型でないと、同じ顔にならない」と店主は言った。六十年のあいだ、毎朝三時に起きてきたこと、正月の三が日以外は一日も休まなかったこと、熱を出した日も、結局は釜の前に立ったことを、彼は淡々と語った。自慢をしているふうではなく、天気の話でもするような口調だった。
そのあと娘が出してくれた昼食は、昆布の出汁に豆腐を泳がせただけの湯豆腐だった。薬味もたれもない。鍋の湯気の向こうで、店主は箸を取らず、私が食べるのをただ眺めていた。一口ごとに、朝の一切れとは違う、あたたかい甘さが舌に残った。
帰りの電車を一本見送り、さらにもう一本見送った。仕事の予定を理由に席を立つのは簡単だったが、その日だけは、どうしても腰が上がらなかった。食の仕事を長く続けていると、うまいものには慣れてしまうが、静かな味には、めったに出会えない。窓の外の商店街が夕方の光に染まっていくのを、私は黙って見ていた。
客足が途切れたころ、私は娘に尋ねた。なぜ、父親の考えに従うのかと。彼女は、おからの桶を直しながら、しばらく黙っていた。
「本当は、続けたいんです。でも、父の味を落としてまで続けるくらいなら、潔く閉めたほうがましだと、今は思っています。父が一生をかけて守ったものを、私の都合で薄めたくない」
その言葉を聞いて、私は、記事を書かないほうがましかもしれないと考えた。この店の価値は、文章にした途端に、観光地の話題に変わってしまう気がしたからである。それでも私は、味ではなく、そこにいた人たちのことを書くことにした。
記事が出た翌週、一通の手紙が届いた。差出人は、あの娘だった。閉店の日、父が初めて、彼女に大豆の見分け方を教え始めたという。店は予定どおり閉まったが、翌月、同じ場所に小さな看板が出た。機械は入れず、一日三十丁だけを作る店である。
そうなることは、記事を書いた私も、娘自身も、そして店主本人も、予想だにしなかった。
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JLPT-style reading questions. Pick the best answer.
Q1
店主が、機械を入れて続けることに反対しているのは、なぜですか。
He would rather quit than sell half-baked machine-made tofu. 「機械で作った中途半端なものを売るくらいなら、やめたほうがましだと思っている」
Q2
「想像だにしなかった」は、どんな気持ちを表していますか。
〜だにしない means 'did not even imagine', marking the event as wholly unexpected. 「昨日の昼に店の戸を開けたときには、想像だにしなかった。」
Q3
「散歩がてら、暗い商店街を歩いて店へ向かった」の「〜がてら」は、どんな意味ですか。
〜がてら adds a second purpose to the main action: walking while heading to the shop. 「散歩がてら、暗い商店街を歩いて店へ向かった」
Q4
娘が、機械を入れて続けたいのに、父の考えに従うのは、なぜですか。
She does not want to dilute what her father protected all his life. 「父が一生をかけて守ったものを、私の都合で薄めたくない」
Q5
筆者が、記事で味ではなくそこにいた人たちのことを書くことにしたのは、なぜですか。
Putting the shop's worth into words would turn it into a tourist topic. 「文章にした途端に、観光地の話題に変わってしまう気がしたからである」
Words in this story
Tab-separated, two columns. Paste into Anki.
取材 しゅざい — reporting; gathering material 評判 ひょうばん — reputation; word of mouth 真に受ける まにうける — to take at face value 間口 まぐち — width of a shop front 木綿 もめん — firm tofu (momen) 前掛け まえかけ — apron 行列 ぎょうれつ — queue にがり にがり — nigari, tofu coagulant 卸す おろす — to sell wholesale 中途半端 ちゅうとはんぱ — half-baked; incomplete 潔い いさぎよい — clean-cut; graceful 淡々と たんたんと — matter-of-factly
Grammar review
Patterns from this story. Find them again as you reread.
がてら
while doing; combining two purposes
昼食がてら、その店をのぞいてみることにした。
ようが / ようと
even if (volitional)
「娘は、機械を入れて続けようと言う。」
くらいなら
rather than do that
機械で作った中途半端なものを売るくらいなら…
ほうがましだ
would rather; better than
やめたほうがましだと思っている」…
放題(ほうだい)
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父は昔から、言いたい放題に言うくせに、肝心なことは何も話さない人だったそうだ。
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