The Seat on the Outer Loop
外回りの席
私が山手線の外回りに乗るようになったのは、自宅が仕事に向かなくなったからである。
校正の仕事は、静かな場所を要する。ところが、去年の秋から、アパートの隣の空き家で解体工事が始まった。朝の八時から、壁を砕く音が響く。耳栓をしても、どうにも赤字が頭に入らない。図書館は午前中に席が埋まり、喫茶店では、一杯の珈琲で二時間も粘るのが心苦しい。そこで思いついたのが、山手線だった。
一周は約一時間である。大塚から乗れば、午前十時台の車内はほどよく空いている。揺れは単調で、車窓は絶え間なく変わるのに、不思議と目が疲れない。私は座席の端に腰を下ろし、膝の上にゲラを広げた。三周もすれば、一冊分の校正が終わる。工事の音を逃れたつもりが、いつの間にか、この電車の中が、私の第二の仕事場になっていた。
その人に気づいたのは、通い始めて三週間ほど経った頃である。
七十代の半ばだろうか。いつも五号車の、ドアの脇の席に座っている。薄い灰色のコートに、古びた革のかばんを抱え、膝の上には小さな手帳が載っている。そして、駅に着くたびに、ほんの一行ずつ、鉛筆で何かを書きつけるのである。一周して大塚に戻ると、手帳のページをめくり、また同じ席に座り直す。降りる気配はない。昼になっても、彼は座ったままだった。
最初は、時間をもてあました年寄りの暇つぶしだろうと思っていた。子供ではあるまいし、毎日同じ電車に何周も乗って、何が楽しいのだろうか。そうは思ったものの、一か月が過ぎ、二か月が過ぎても、彼は毎朝、同じ時刻に同じ席にいた。そうなると、私のほうが気になって仕方がない。ゲラの上の活字を追っていても、鉛筆の動く音が耳に残り、どうにも落ち着かないのである。
あれは、ただの暇つぶしではあるまいか。いや、暇つぶしでないとすれば、いったい何を書いているのだろう。
十二月の寒い朝、私はとうとう我慢ができなくなった。電車が田端を出たところで、思い切って声をかけた。
「差し出がましいことをお訊きしますが、毎日、何を書いていらっしゃるのですか。」
彼は、ゆっくりと顔を上げた。怒るかと思ったが、意外にも、その目は穏やかだった。
「窓の外ですよ」
「窓の外、ですか。」
「駅ごとにね、見えたものを一行だけ、書くんです。」
そう言って、彼は手帳を差し出した。表紙は擦り切れていたが、中身は几帳面な字で埋まっていた。
〈巣鴨。ホームの端に、赤い自動販売機が一台。向かいの屋根に、鳩が三羽。〉 〈駒込。桜の枝が、線路の上まで張り出している。まだ裸である。〉 〈日暮里。墓地の木々の向こうに、白い雲。風は西から。〉
読み進めるうちに、私は不思議な気持ちになった。どの行にも、評価や感想は一つもない。ただ、見えたものが、見えたとおりに並んでいる。それなのに、ページをめくるたび、頭の中に電車の窓が開くようだった。
「妻のためなんです」
彼は、そう言った。
妻の昌子さんは、東京の下町に生まれ、七十二歳で亡くなるまで、一度も東京を出たことがなかったという。ところが、山手線をぐるりと一周したことは、一度もなかった。工場に勤め、子供を育て、介護のために家に縛られ、気がつけば、自分の住む街の全体を知らないまま、年を取ってしまったのである。
「入院していた最後の冬にね、『窓の外が見たい』と言ったんです。病室の窓は、隣のビルの壁しか見えませんでしたから。」
彼は、手帳の表紙を撫でた。
「約束したんです。私が代わりに回って、見たものを全部、話して聞かせると。」
それ以来、彼は毎朝この電車に乗り、駅ごとに一行を書く。そして日曜日には、駒込の近くの霊園へ行き、一週間分の手帳を声に出して読むのだという。
私は、返す言葉を持たなかった。男やもめの日課と呼べば、それまでである。しかし、三十の駅の景色を、一つ残らず、毎日、同じ丁寧さで拾い続けるというのは、並大抵のことではない。それが愛情でなくて何だろう。そう思うと、これまで「暇つぶし」と決めつけていた自分が、どうにも恥ずかしくてならなかった。
「ずいぶん長く続けておられますね。」
「もうすぐ、一年になります。」
「飽きることは、ないのですか。」
彼は、窓のほうを見て、少し笑った。
「同じ景色は、二度とありません。昨日の鳩は、今日はもう、いないんですよ。」
年が明けて、一月の半ば、彼の姿が車内から消えた。
一日、二日と過ぎても、五号車のドアの脇の席は空いたままだった。まさか、体調を崩したのではあるまいか。そう考え始めると、ゲラの文字がどうにも目に入らず、私は何度も同じ行を読み返した。連絡先を訊いておかなかった自分の迂闊さを、心の底から悔やんだ。
五日目の朝、彼は、何事もなかったかのように、いつもの席に座っていた。
「風邪をこじらせましてね。こういうときに限って、雪が降ったそうで。残念なことをしました。」
彼は、本気で悔しそうだった。私は思わず笑い、それから、胸の奥が少し熱くなった。
その日、私は初めて、ゲラの余白に鉛筆で書き込みをした。校正の記号ではない。電車が大塚を出て、巣鴨に着いたときに見えた、ホームの端の景色である。
〈巣鴨。ホームの雪が、端のほうだけ、まだ残っている。〉
彼は、横目でそれを見て、何も言わずに、小さくうなずいた。
その日から、私たちは、駅ごとに一行ずつ、別々の手帳に別々の景色を書く。同じ窓の外を見ているはずなのに、書かれる一行は、驚くほど違う。彼は鳩を書き、私は屋根の雪を書く。
工事の音はとうに止み、私の部屋はまた静かになった。それでも、私は、今も毎朝、大塚から外回りに乗っている。仕事のためではない。見逃してはならない景色が、まだたくさんあるからである。
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JLPT-style reading questions. Pick the best answer.
Q1
老人が駅ごとに一行ずつ書くのは、なぜですか。
He promised his wife to ride in her place and tell her everything he saw. 「約束したんです。私が代わりに回って、見たものを全部、話して聞かせると。」
Q2
「私」が、老人を「暇つぶし」と決めつけていた自分を恥ずかしく思ったのは、なぜですか。
Picking up every station's view with the same care daily is an act of love. 「並大抵のことではない」「それが愛情でなくて何だろう」
Q3
「子供ではあるまいし」という形は、ここでどんな働きをしていますか。
It points out the obvious fact that he is not a child, to explain why the habit seems odd. 「子供ではあるまいし、毎日同じ電車に何周も乗って、何が楽しいのだろうか」
Q4
「それが愛情でなくて何だろう」は、どんな気持ちを表していますか。
〜でなくて何だろう is a rhetorical question meaning it is surely that. 「それが愛情でなくて何だろう。」
Q5
最後に「私」が今も毎朝外回りに乗るのは、なぜですか。
The construction noise has stopped; she rides to not miss the scenery. 「見逃してはならない景色が、まだたくさんあるからである」
Words in this story
Tab-separated, two columns. Paste into Anki.
校正 こうせい — proofreading 解体工事 かいたいこうじ — demolition work 粘る ねばる — to linger; to persist 車窓 しゃそう — train window view 几帳面 きちょうめん — meticulous 迂闊 うかつ — careless 男やもめ おとこやもめ — widower 並大抵 なみたいてい — ordinary; common こじらせる こじらせる — to make a cold worse 余白 よはく — margin 霊園 れいえん — cemetery 悔やむ くやむ — to regret
Grammar review
Patterns from this story. Find them again as you reread.
どうにも~ない
cannot at all; no matter what
耳栓をしても、どうにも赤字が頭に入らない。
びる / びて / びた
take on the air or quality of
薄い灰色のコートに、古びた革のかばんを抱え、膝の上には小さな手帳が載っている。
ではあるまいし
it is not as if; you are not a child
子供ではあるまいし、毎日同じ電車に何周も乗って、何が楽しいのだろうか。
ようが / ようと
even if (volitional)
そうなると、私のほうが気になって仕方がない。
ではあるまいか
could it not be that
あれは、ただの暇つぶしではあるまいか。
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