The Notes on the Office Fridge
冷蔵庫の貼り紙
我が社の共用冷蔵庫に最初の貼り紙が現れたのは、梅雨の初めの月曜日だった。
「名前のない食べ物を食うべからず」
達筆である。筆ペンで書かれ、四隅には律儀に画鋲まで打たれている。経理部に入って三年、私はこの冷蔵庫を毎日のように開けてきたが、これほど威厳のある文言に出会ったのは初めてだった。
もっとも、威厳があるのは文字だけで、中身は至って平凡である。名前のない食べ物とは、要するに、先月から冷蔵庫の奥で眠っているプリンのことだった。誰のものでもないはずのそのプリンを、誰かが毎晩こっそり見張っていたらしい。
翌朝、貼り紙の下に、細いペンで返事が書き足されていた。
「名前があれば食べてよい、という意味でしょうか」
一同は色めき立った。これは、貼り紙の主に対する、明らかな挑戦である。しかも、字は丸く、どこか楽しげだった。
犯人探しが始まるまで、時間はかからなかった。まず疑われたのは、課長の村田さんである。村田さんは、何かと偉ぶる人だった。会議では腕を組み、部下の報告に「ふむ」と二度うなずいてから、「で、結論は」と訊く。あの達筆も、いかにも課長ぶった態度に合っている、というのが大方の見方だった。
ところが、直接確かめると、村田さんは顔をしかめた。
「私は、あんな古めかしい字は書かん。だいたい、プリンなど食べない」
その手が、昼休みにはコンビニの袋を提げているのを、私は見ていたが、黙っておくことにした。
次に名前が挙がったのは、営業部の新人だった。字が丸いからという、ただそれだけの理由である。呼び出された彼は、真っ青になって首を振った。
「僕は、貼り紙の主でも何でもありません。冷蔵庫には、水しか入れていませんから」
誰も、彼を疑い続けることはできなかった。水の入ったペットボトルほど、潔白な物証はない。
翌日、貼り紙がもう一枚増えた。
「冷蔵庫に入れた者は、中身を三日以内に食すべし。放置すべからず」
今度は赤いペンだった。その下には、あの丸い字で、一行だけ添えてある。
「プリンに限っては、期限は三日でも十日でも構わないと思います」
私は思わず吹き出した。吹き出したあとで、笑っている場合ではないと気づいた。貼り紙は、いつの間にか二人だけの文通になり、会話は日ごとに熱を帯びていたのである。怒りでもあり、遊びでもあるその応酬は、誰にも止められなかった。
それからの数日間、冷蔵庫の扉は、掲示板と化した。「ヨーグルトの蓋を舐めるべからず」「牛乳は一気に飲むべからず」。誰が書いたのかわからない貼り紙が、日に日に増えていく。経理部の者であれ営業部の者であれ、昼休みになると、まず扉の前に集まって、新しい貼り紙を読んだ。弁当を温める順番を待つ列より、貼り紙を読む列のほうが長い日さえあった。
部長でさえ、例外ではなかった。ある朝、私は、部長が扉の前で腕を組み、小さな声で貼り紙を読み上げているのを見てしまった。「放置すべからず。……もっともだ」。部長であれ新人であれ、あの扉の前では、ただの読者である。
ところが、事態は思わぬ方向へ進んだ。金曜日、全社員に、総務から一通のメールが届いたのである。件名は、実に事務的だった。
「冷蔵庫への貼り紙を禁止します。見た目が悪いという苦情が寄せられました」
おそらく、部長の指示だろう。皆は肩を落とした。昼休みの楽しみを、一通のメールに奪われたような気分だった。あの二人の文通が、これで終わってしまうのは、惜しい気がした。
月曜の朝、私は少し早く出社して、冷蔵庫を開けた。貼り紙は、一枚残らず消えていた。ただ、奥のプリンだけは、まだそこにあった。見ると、容器の側面に、あの丸い字で、小さく「村田」と書いてある。
私は目を疑った。村田さんは、さっき「あんな字は書かん」と言い切ったばかりである。いや、正確に言えば、達筆は書かないと言ったのであって、丸い字のことは何も言っていなかった。
そこへ、足音がして、村田さん本人が入ってきた。目が合った。村田さんは、わかりやすく固まった。
「……見たな」
「見ました」
長い沈黙があった。やがて、村田さんは、観念したように椅子に腰を下ろした。
「そうだよ。丸い字は、私だ。昔から、この字が嫌でな。部下に舐められるのが怖くて、偉ぶっていたんだ。課長のくせに、字は小学生だ」
「でも、あのプリンは?」
「あれは、妻が持たせてくれたんだ。結婚記念日に。食べるのがもったいなくて、冷蔵庫に入れたまま、先月になった」
その時、扉の向こうで、もう一つの声がした。清掃の石川さんだった。六十を過ぎ、書道教室の師範でもある人である。
「あの達筆は、私ですよ」
石川さんは、バケツを置いて、あっけらかんと笑った。
「あのプリン、賞味期限が先月でしょう。誰かが食べて、お腹でも壊したら大変だと思いましてね。それで、食うべからずと書いたんです。まさか、そんなに騒ぎになるとは」
「食べるなと、ずいぶん偉そうに書いてありましたが」
「筆を持つと、どうしても威張った字になるんですよ。私は、威張りん坊でも何でもないんですがね」
村田さんは、しばらく容器を見つめていた。それから、ゆっくりとプリンを取り出し、蓋を開けずに、ごみ箱の上へ持っていった。
「これで、貼り紙の主は私でもあり、君たちでもあるわけだ」
誰も、何も言わなかった。ただ、ごみ箱に落ちる小さな音だけが、静かな給湯室に響いた。
その日の昼、冷蔵庫の扉に、貼り紙が一枚だけ戻っていた。達筆と丸い字が、一枚の紙に仲良く並んでいる。
「名前を書くべし。ただし、字の上手下手は問わない」
私は、思わず笑ってしまった。それから、自分のペンを胸ポケットから抜いて、その隣に、小さく書き足した。「賛成」。字は、決して上手くない。だが、あの扉の前では、もう、誰も気にしないのである。
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JLPT-style reading questions. Pick the best answer.
Q1
村田さんが、会議などで偉ぶっていたのは、なぜですか。
He disliked his round handwriting and feared his staff would look down on him. 「部下に舐められるのが怖くて、偉ぶっていたんだ。」
Q2
清掃の石川さんが「食うべからず」の貼り紙を書いたのは、なぜですか。
He worried someone might eat the expired pudding and get sick. 「誰かが食べて、お腹でも壊したら大変だと思いましてね。」
Q3
「名前のない食べ物を食うべからず」という言い方は、どんな表現ですか。
〜べからず is an old, written, strongly prohibiting form, which fits the stern brush-written notice. 「名前のない食べ物を食うべからず」
Q4
「経理部の者であれ営業部の者であれ」は、どんな意味ですか。
〜であれ〜であれ means 'whichever it is'; people from both departments gathered the same way. 「経理部の者であれ営業部の者であれ、昼休みになると、まず扉の前に集まって」
Q5
「私」が、丸い字の貼り紙の主は村田さんだと気づいたのは、なぜですか。
The pudding container bore his name in the same round hand. 「容器の側面に、あの丸い字で、小さく」
Words in this story
Tab-separated, two columns. Paste into Anki.
貼り紙 はりがみ — posted notice 達筆 たっぴつ — fine handwriting 威厳 いげん — dignity, authority 色めき立つ いろめきだつ — to become excited 偉ぶる えらぶる — to put on airs 放置 ほうち — to leave as is 熱を帯びる ねつをおびる — to heat up 掲示板 けいじばん — bulletin board 観念 かんねん — resignation, giving up 賞味期限 しょうみきげん — best-before date あっけらかん あっけらかん — nonchalantly 威張る いばる — to act arrogant
Grammar review
Patterns from this story. Find them again as you reread.
べからず / べからざる
must not; forbidden
「名前のない食べ物を食うべからず」
ぶる / ぶって / ぶった
act or pose as if one were
村田さんは、何かと偉ぶる人だった。
いかにも
indeed; really looking like
あの達筆も、いかにも課長ぶった態度に合っている、というのが大方の見方だった。
でもあり~でもある
is both A and B
怒りでもあり、遊びでもあるその応酬は、誰にも止められなかった。
であれ / であろうと
whoever or whatever it may be; even if
経理部の者であれ営業部の者であれ…
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