The Last New Year Cards
年賀状じまい
十二月になると、私は決まって居間の座卓に宛名帳を広げる。夫が元気だった頃は、二人で手分けして二百枚あまりを書いた。今は私ひとりで、六十枚にまで減った。それでも、筆を持てば、一枚ごとに相手の顔が浮かぶ。浮かんでしまうから、手を休めるわけにはいかない。
ところが、今年は様子が違った。右手の震えがひどく、宛名の「様」の字が、どうしても思うように決まらないのである。筆まめを自負してきた私といえども、こればかりは年には勝てない。十枚ほど書き損ねたところで、私はペンを置いた。
思えば、夫は無口な人だった。口では何も言わないくせに、年賀状の季節になると、毎年、墨を磨って「謹賀新年」と大きく書いた。その字は、不思議と、書いた本人の無愛想さを少しも感じさせない、おおらかなものだった。あの字を見るたびに、私は、この人は言葉の代わりに筆を通して話しているのだと思ったものである。
郵便局まで歩くのも、近頃は億劫になった。十二月も下旬ともなると、窓口には長い列ができる。三十分も立ちっぱなしでいるのは、八十に近い膝には酷な話だ。
かつては、夫とふたりで紙袋いっぱいの葉書を提げ、年の瀬の冷たい風の中を歩いたものだった。重い袋を代わる代わる持ちながら、来年も皆が元気でありますようにと、夫が珍しく口にした年もあった。
そこで、私は決心した。今年をもって、年賀状をやめよう。近頃は「年賀状じまい」と呼ぶのだそうで、やめる旨を知らせる文面を、最後の一枚に添えるのが礼儀らしい。
その夜、私は仏壇の前に座り、書きかけの文面を、夫の写真に向かって声に出して読んでみた。もちろん、返事はない。ただ、線香の細い煙が、まっすぐ天井へ昇っていくだけだった。
文面は、案外すぐに決まった。「長年のご厚情に感謝し、本年をもちまして、新年のご挨拶を失礼させていただきます」。字面は、申し分ない。だが、読み返すと、どこか事務的で、そっけなく感じられた。
宛名帳を繰りながら、私は六十人の名前をひとつずつ確かめた。
宛名帳には、すでにこの世にいない人の名も、まだ残っている。恩師、夫の上司、隣に住んでいた奥さん。線を引いて消せばいいのだと頭ではわかっていながら、私はどの名前の上でも、ペンを動かせずにいた。名前を消すということは、その人との最後の糸を、自分の手で切ることのように思えたのだ。その中に、節子の名があった。
節子とは、女学校以来、六十年の付き合いになる。結婚して遠い町へ移ってからは、顔を合わせるのも、五年に一度あるかないかだった。電話さえ、ほとんどしたことがない。それでも、毎年一月一日になると、節子の丸い字の年賀状が、必ず郵便受けに届いていた。
考えてみれば、私たちの付き合いは、この一枚の葉書あっての付き合いだった。葉書がなくなれば、糸はあっけなく切れてしまうだろう。そう思った途端、さっきまで立派に見えた文面が、急に冷たいものに思えてきた。
私は、節子の分だけ、文面を書き直すことにした。何度も消しては書き、書いては丸めた。ようやく残ったのは、たった二行だった。
「葉書はこれで最後にします。けれど、あなたの健康と幸せを願ってやみません」
投函したのは、二十八日の朝だった。ポストの口に葉書を滑らせた瞬間、軽くなった手を見つめて、私は少しだけ泣きたくなった。
帰り道、公園の前で、近所の小学生が「おはようございます」と元気よく頭を下げていった。私も会釈を返しながら、年賀状を出さなくなっても、挨拶の仕方ならほかにいくらでもあるのだと、ぼんやり考えた。
正月は、静かに明けた。例年のように、郵便受けを覗く。年賀状は、思ったより多く届いていた。その束を座卓の上で一枚ずつ繰ったが、節子の丸い字は、見当たらなかった。
一月二日には、東京に住む娘が、孫を連れて顔を見せに来た。炬燵に入って蜜柑を剥きながら、娘は私の顔をしげしげと見た。「お母さん、今年はどうして年賀状をやめたの」。私は、手が震えることは言わず、「もう十分書いたからよ」とだけ答えた。娘は何か言いかけたが、結局、黙って蜜柑を半分、私の手にのせてくれた。
当然である。私の最後の葉書の到着は、早くても二、三日はかかるはずだ。わかっていながら、私は何度も束をめくり直した。
三日の夕方、居間の電話が鳴った。
「もしもし、私。節子です」
懐かしい声が、受話器の向こうで少し笑っていた。
「葉書、今、読みました。年賀状はやめても、私たちの付き合いまでやめるつもりはありませんからね」
返事をしようとしたが、声が出なかった。やっとのことで、「そうね」とだけ言った。
「それでね、これからは、電話にしましょう。年に一度、お正月に。字は書けなくなっても、声なら、まだ出せるもの」
「そうそう、覚えている? 女学校の帰り道、二人で半分ずつ食べた焼き芋。あの熱かったこと」
「覚えているわよ。あなたが先に食べ終えて、私のを欲しそうに見ていたでしょう」
受話器の向こうで、節子が声を立てて笑った。六十年の時が、ほんの一瞬で、あの冬の帰り道に縮まった気がした。
その通りだと思うと、私は笑わずにはいられなかった。笑いながら、目の端が、また少し濡れた。
電話を切ったあと、私は座卓の上の六十枚の束を、もう一度ゆっくりと眺めた。来年の正月は、何人の声が聞けるだろう。そう考えながら、私は新しいノートを開き、いちばん上に、節子の電話番号を書き写した。ペン先は、もう震えなかった。ページの隅には、小さく「一月三日、節子と電話」と書き添えた。来年の私が、これを読んで微笑んでくれればいい。
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JLPT-style reading questions. Pick the best answer.
Q1
「今年をもって、年賀状をやめよう」は、どんな意味ですか。
〜をもって marks the point where something ends: 今年をもって = as of this year, she stops.
Q2
「筆まめを自負してきた私といえども」を使ったのは、なぜですか。
〜といえども means even someone like X. Her pride makes the limit of age more striking.
Q3
「この一枚の葉書あっての付き合い」とは、どんな付き合いですか。
〜あっての means X exists only because of Y. She and Setsuko rarely met, so the yearly card was the thread.
Q4
節子は、年賀状をやめたあと、どうしようと言いましたか。
She said: 字は書けなくなっても、声なら、まだ出せるもの — once a year, on New Year's, by phone.
Q5
「笑わずにはいられなかった」のは、なぜですか。
〜ずにはいられない = cannot help doing. The idea felt exactly right, and relieved her.
Words in this story
Tab-separated, two columns. Paste into Anki.
宛名帳 あてなちょう — address book 筆まめ ふでまめ — fond of writing letters 自負 じふ — self-confidence, pride 億劫 おっくう — troublesome, a bother 下旬 げじゅん — last third of the month 酷 こく — harsh, cruel 厚情 こうじょう — kindness, favor 事務的 じむてき — businesslike 投函 とうかん — to mail, post 見当たらない みあたらない — cannot be found 濡れる ぬれる — to get wet 眺める ながめる — to gaze at
Grammar review
Patterns from this story. Find them again as you reread.
といえども
even though
筆まめを自負してきた私といえども、こればかりは年には勝てない。
損なう / 損ねる / 損じる(そこなう / そこねる / そんじる)
fail to; do wrongly
十枚ほど書き損ねたところで、私はペンを置いた。
っぱなし
leaving something in a state; continuously
三十分も立ちっぱなしでいるのは、八十に近い膝には酷な話だ。
かつて
once; formerly; never (with neg)
かつては…
をもって / をもちまして
by means of; as of (date)
今年をもって、年賀状をやめよう。
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