The Barber Shop on Thursdays
木曜日の理髪店
木曜日の夕方、駅から家へ向かう途中で、理髪店の前に張り紙が出ているのに気づいた。 〈長年のご愛顧に感謝いたします。当店は、今月末をもちまして閉店いたします。〉 筆で書かれた文字は、店主の三好さんのものだった。私は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
三好理髪店には、十二歳のときから三十年近く通っている。最初に連れてきたのは父だった。父は、散髪が終わるたびに、店主と二人で将棋を指す時間を、何よりも楽しみにしていた。母も姉も、わが家は代々この店に髪を任せてきた。年賀状を交わし、お盆には果物を贈り合う、家族ぐるみの付き合いである。三年前に父が亡くなったとき、最後まで棺のそばを離れなかったのも、三好さんだった。
私の予約は、毎月第三木曜日の六時と決まっていた。天候のいかんにかかわらず、その日だけは仕事を早く切り上げて、店に向かった。大雪の日も、台風の日も、ほかの客はひとりもいなかったが、三好さんは、いつもと同じ白い上着で、いつもと同じように、「いらっしゃいませ」と頭を下げた。いかなる客に対しても、その礼を欠いたことは、一度もなかった。
店の隅には、父と三好さんが指していた将棋盤が、今もそのまま置かれている。駒の並びは、三年前の最後の勝負のままだった。三好さんは、その盤に触れようとしなかったし、私も、それについて尋ねたことはない。ヘアトニックの甘い匂いと、古い扇風機の音。この店だけは、時間の流れから取り残されているように見えた。
張り紙を見た三日後、私は、予約の日でもないのに、店のドアを押した。 「おや、今月は早いですね」 三好さんは、新聞から顔を上げて笑った。七十八歳になる手は、以前よりも細く、ハサミを持つ指先が、かすかに震えている。理由を尋ねる前に、答えは目の前にあった。 「見てのとおりです。この手では、もう無理でしてね」 三好さんは、右手を開いたり閉じたりしながら言った。 「髪を切るだけなら、まだなんとかなる。ですが、お客さんの耳でも切ろうものなら、お詫びでは済まないでしょう。いかに長い付き合いのお客さんであろうと、いかなる理由があろうと、それだけは許されない。刃物を持つ仕事というのは、そういうものです」 私は、言葉を探した。 「娘さんのところへ行かれるんですか」 「ええ。娘が、一緒に住もうと言ってくれましてね。向こうには、孫もいます」 「寂しくなります」 「なに、騒ぐほどのことではありません。店は古くなったし、客も減った。商店街ぐるみで、そういう時代なのでしょう」 そう言って笑う顔を見ているうちに、私は、胸の奥が、ずしりと重くなるのを感じた。帰り道、私は、商店街を端から端まで歩いてみた。シャッターの下りた店が、いつのまにか、これほど増えていたのかと思った。
その夜、息子の寝顔を見ながら、私は、ひとつのことを思いついた。七歳になる息子の髪は、これまで、妻が台所のはさみで切ってきた。三好さんの店へ連れていったことは、一度もない。じっとしていられない子どもに、震える手で刃物を持たせるのは酷だと、勝手に決めていたからだ。しかし、父が三十年かけて三好さんに髪を預けたように、息子にも、一度でいいから、あの鏡の前に座らせたかった。断られるかもしれない。それでも、頼んでみる価値はあると思った。
閉店の日は、月末の木曜日だった。私は、仕事を休み、午後いちばんに、息子の手を引いて店へ行った。 「今日は、この子の髪をお願いしたくて、まいりました」 三好さんは、ハサミを磨いていた手を止めた。 「……お子さんですか。それは、お断りしなければなりません」 声は、静かだった。 「子どもというのは、動くものです。くしゃみ一つで、お詫びでは済まないことになりかねない」 「承知しています。結果のいかんにかかわらず、今日、お願いに来ることだけは、決めていました。父は、三十年、あなたに髪を預けました。私も、息子を預けたいのです」 三好さんは、長いあいだ黙っていた。店の時計の音だけが、ゆっくりと響いていた。やがて、三好さんは、子ども用の板を、椅子の肘掛けに渡した。 「……いらっしゃいませ」
息子は、板の上にちょこんと座り、鏡の中の自分と目を合わせたまま、ぴたりと動かなくなった。三好さんが、ハサミを握った。その瞬間、私は、目を疑った。あれほど震えていた指先が、嘘のように止まっているのである。チョキ、チョキと、小さな音が、規則正しく店の中に響いた。三十年間、私が聞き続けてきた、あの音だった。 震えが止まったことを、私は、口にしなかった。言葉にするほどのことではないと思ったし、口にしてしまえば、その音が消えてしまいそうな気がしたからである。
仕上げの布を外しながら、三好さんは、いつもの言葉を、息子にも言った。 「お客さま、かゆいところはございませんか」 「ありまーす。せなか」 三好さんは、一瞬きょとんとして、それから、声を上げて笑った。私は、三十年間、一度もその笑い声を聞いたことがなかった。 「そうですか。背中ですか」 三好さんは、息子の背中を、ブラシで丁寧に払ってくれた。 「この質問を三十年してきましたが、背中と答えたお客さんは、あなたが初めてです」 帰り際、三好さんは、私にも、同じ質問をした。私は、少し考えてから、答えた。 「実は、ずっとあったんです。言えなかっただけで」 「そうでしたか」三好さんは、いたずらっぽく目を細めた。「では、来月、いらしてください。店は閉めますが、ハサミを置くとは申しておりません。娘の家の縁側なら、日当たりもいい」 私は、手帳を開き、来月の第三木曜日に、印をつけた。住所は、まだ書き込めなかったが、どれほど遠い町であろうとも、行くつもりだった。
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JLPT-style reading questions. Pick the best answer.
Q1
三好さんが理髪店を閉めることにした、いちばんの理由は何ですか。
His trembling hand could hurt a customer. 「この手では、もう無理でしてね」「お客さんの耳でも切ろうものなら、お詫びでは済まないでしょう」
Q2
「私」が七歳の息子を連れて店へ行ったのは、なぜですか。
He wanted his son to sit once before that mirror, as his father had. 「息子にも、一度でいいから、あの鏡の前に座らせたかった。」
Q3
「天候のいかんにかかわらず」は、どんなことを表していますか。
〜のいかんにかかわらず means 'no matter how it is'; he went in snow and typhoons alike. 「天候のいかんにかかわらず、その日だけは仕事を早く切り上げて」
Q4
「お詫びでは済まないことになりかねない」の「〜かねない」は、どんな意味ですか。
〜かねない warns that something bad may happen; a single sneeze by a child could cause an injury. 「くしゃみ一つで、お詫びでは済まないことになりかねない」
Q5
「私」が、三好さんの手の震えが止まったことを口にしなかったのは、なぜですか。
He feared that saying it would make the sound of the scissors vanish. 「口にしてしまえば、その音が消えてしまいそうな気がしたからである」
Words in this story
Tab-separated, two columns. Paste into Anki.
愛顧 あいこ — patronage, favor from customers 棺 ひつぎ — coffin 散髪 さんぱつ — haircut 店主 てんしゅ — shop owner 震える ふるえる — to tremble 酷 こく — harsh, cruel 預ける あずける — to entrust, to leave in someone's care 肘掛け ひじかけ — armrest 規則正しい きそくただしい — regular, steady 目を疑う めをうたがう — to not believe one's eyes 縁側 えんがわ — veranda いたずらっぽい いたずらっぽい — playful
Grammar review
Patterns from this story. Find them again as you reread.
をもって / をもちまして
by means of; as of (date)
当店は、今月末をもちまして閉店いたします。
尽くす(つくす)
use up completely
私は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
ぐるみ
together with; the whole thing
年賀状を交わし、お盆には果物を贈り合う、家族ぐるみの付き合いである。
いかんにかかわらず / いかんによらず / いかんをとわず
regardless of
天候のいかんにかかわらず、その日だけは仕事を早く切り上げて、店に向かった。
いかなる
any sort of; whatever
いかなる客に対しても、その礼を欠いたことは、一度もなかった。
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